上っ面な台詞じゃないから 想いが伝わるから 心の奥を揺さぶるんだ
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公私共に、日常のなかで欠かせないツールのひとつとなっている『メール』。
その時間と場所を選ばない利便性について、前出の
『携帯電話』で触れ、
面倒臭がりやの私は、どちらかと言えば電話を好むと言った。
また、
『文字』に関しては、手書きの手紙が一番嬉しいとも言った。
『メール』が、本当の心からの言葉であるかどうかは、
互いに相手をよく知り尽くしていなければ、わからないと思うから。
けれど、親しい人と交わす『メール』は、互いに限られた時間のなかで、
すれ違うことも少なくないと、時には、電話や手紙と同じくらい、
いや、それらを上回るほどに、私を喜ばせたり、感動させたりすることもある。
私がメールを使う時は、大きく分けて、3つの目的がある。
ひとつは、連絡事項を伝える手段として使う場合。
もうひとつは、手紙の代わりに近況報告などを知らせる場合。
そして、最後に、タイミングが合わなくて、直接話ができなかったり、
面と向かって言えなかったりで、『メール』で気持ちや想いを届ける場合だ。
連絡事項に関しては、挨拶+用件といった簡潔な『メール』が多い。
一応、親しい相手だと絵文字も少しは使うけれど、なくてもいい(笑)
『手紙』代わりのメールは、ひたすら長い。
だから、打ち始めるには覚悟がいるのだが(笑)
話を聴いて欲しかったり、相手の話を聴きたかったり、
または、元気な様子を知らせたかったり、知りたかったり、
打つ相手が、かなり限定されてくるし、頻繁に打つわけではないので、
打つのも読むのも大変なほど長くても(笑)、それはOKなのだ。
『想い』を届けたくて送るメールは、たとえば誕生日とか、クリスマスとか、
なにかの記念日とか、ここぞ!と言う時に、大切な人へ送る。
『手紙』より確実に日時指定ができるし、日付が変わる瞬間とか(笑)
ちょっとした、サプライズ的な要素も含めやすい。
(場合によっては、真夜中は迷惑かもしれないので注意…笑)
また、一見、無機質に見える活字の羅列である『メール』でさえも、
それが長年の付き合いになると、相手の声や表情やしぐさまでもが
自然と思い浮かぶものだ。
そんな相手から、こちらが何も構えていない時に、突然、温かいメールが
届いたり、それがたまたまちょっと疲れてる時だったりすると、
思わぬ相乗効果で、想定外のパワーを発揮して、一通の『メール』が
私の涙腺をもろくさせることもあるのは、照れくさいから、内緒にしておこう(笑)
イエスかノーか 簡単に割り切れない 混ざり合って ほんとのあたし
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素直に生きようとすればするほど、つじつまの合わないことが生じてくる。
それを『矛盾』という一言で片付けて、否定したり、責めたりする気は
私には毛頭ない。
むしろ、人間らしくていいじゃないとさえ思う。
なにもかも、杓子定規に決め付けるのは、無理が出てくるだろう。
感情のベクトルが、四方八方に向いていれば、
当然、どこかでぶつかったり、互い違いになることもある。
特に、私のような欲張りな人間は(笑)、多々、そういう場面に出くわす。
ただ、その『矛盾』に自身が翻弄されて、迷ったり、悩んだりしないで、
受け止めていくことができたら、それはそれで良いのだと思う。
私の身近な例で挙げると、子育てなんて、『矛盾』の連続だと思う。
自立して欲しいという想いと、いつまでも傍にいて欲しいという想い。
けれど、それはどちらも愛情からくるものであって、深いところでは、
繋がっているのだから、『矛盾』して当然だと開き直ってしまえばいい(笑)
きっと、恋愛だって似たようなもの。
なにもかも知りたいという想いと、余計なことは言わないで欲しいという想い。
絶妙な(笑)バランスを相手に求めることも、大なり小なり『矛盾』に近い
感情のひとつではないだろうか。
けれど、ひとつの事柄に対して、毎回、言うことが違うとか、
その時その時で、意見や考えが転々としてしまうようだと、
それは、単なる我侭や気分やの類になってしまうので、注意したい(苦笑)
ある程度、自分のポリシーや、貫きたい想いがあってこその『矛盾』ならば
抱えていても苦にならないし、どっちに転んでも、上手く対処できるような
気がする。
私は、自分らしくいられる大切なアイテムのひとつとして、
『矛盾』する感情や想いと、仲良く付き合っていけたらいいなと願う。
いくつかの『矛盾』を抱えながら、たどり着く場所は同じだと信じて。
時と共に少しずつ欲張りになってきた 生き甲斐はひとつじゃなくてもいい
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『生き甲斐』とは
・・・生きるに値するだけの価値。 生きていることの喜びや幸福感。
『あなたの生き甲斐はなんですか?』と突然聞かれたら
数年前の私なら、迷わず『ひとり息子』と答えていたと思う。
それは、今でもさほど変わってはいないのだけれど、
『子育て』という意味では、段々、手がかからなくなり、
『自立』しようとしている息子を見ていると、以前ほど声を大にして
宣言してしまうのもどうかと思うようになった(苦笑)
『あなたが私の生き甲斐なの。』と、母に言われて育った私は、
思春期にはそれが重荷に感じていたこともあったし、
(もっとも大人になってからは、感謝していたけれど…笑)
息子の負担になりたくないというプライドもある(苦笑)
『仕事』が生き甲斐という人もいると思う。
けれど、なんのために仕事をするのか…というところに考えを及ばすと
生活するため、家族のため、自分の好きなことをやりたいためなど
行き着く先は人それぞれだろう。
大切に守りたい『家族』がいたり、やりがいのある『仕事』に恵まれたり、
時間を忘れて没頭できるほどの『趣味』に出逢えたり、
追いかけたい『夢』を見つけたり、どれかひとつを『生き甲斐』にするもよし、
バランスをとりながら、いくつかを『生き甲斐』にするもよしではないか。
私の場合、ベースは今も『家族』にある。
母が逝ってしまってから、特に、親孝行しなくてはという意識が強くなり、
父のことを気にかけているし、子育てしている感は減っても、
息子もまだ未成年で、多少なりとも手助けを必要としている。
手のかからない人生の伴侶(笑)は、そんな息子を生き甲斐としているし(笑)
それら全部をひっくるめて、『家族』がいるから頑張らなくちゃと思ったり、
逆に助けられているところも少なくない。
けれど、これからは少しずつ、他の『生き甲斐』も大事にしていきたい。
『仕事』をして社会と繋がり、『趣味』を楽しんで生き生きとして、
大切な『人』との繋がりを、心の支えにしたり、されたり、欲張りに生きたい。
そのためには、何よりも『健康』でいること!
自分はもちろん、周りの人たちも、元気で笑顔でいてくれなくちゃ。
私が私でいられるために、どうかお願いいたします(笑)
ひとりじゃなかった どんな時も 想い出はいつも優しくて愛しい
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『思い出』ではなく、あえて『想い出』と拘ってみたり(笑)
単なる記憶の欠片じゃなくて、今の自分を築いてくれた、大切な記憶。
私はとりたてて記憶力が良いほうではない。
というか、どうでもいいこと、嫌なことは、結構すぐに忘れてしまう。
血気盛んな若い頃、売り言葉に買い言葉で、勢いに任せて半泣きで
「一生忘れないからね!」と口走ったらしいが、翌日には忘れていて、
喧嘩の原因すら覚えていないという笑い話になってしまうくらいだ。(苦笑)
けれど、その反面、嬉しかったこと、大切にしておきたいことは、
意図せずとも、はっきり記憶に残っていて、しかも『想い出』のなかでそれらは
いつしか美化されてたりするから、かなり都合良く私を支えてくれている(笑)
だからといって、『想い出』に縋って、生きているつもりもない。
過去は糧にこそなれ、大切にすべきは『今』であると、常々思っているが、
ふとしたきっかけ、何かのキーワードであったり、偶然耳にした曲だったり、
テレビで流れる映像だったり、景色だったり、夢だったり・・・で
突然、いつかの『想い出』が鮮明によみがえることがあるのは否めない。
言われた言葉だったり、交わした視線だったり、そういう具体的なものから、
ただなんとなくの空気感みたいな曖昧なものまで、一挙に押し寄せて、
不思議な時間が戻ったりする。
そして、私は、懐かしさのなかに、言いようのない切なさや感謝を感じて、
ひとり密かに微笑んだりする。
出逢いがあれば、別れもある。その別れが、永遠の別れの場合、
特に『想い出』は大切で、後悔ややるせなさを感じながらも、
共に過ごせた時間を慈しみながら、空を見上げて語りかけたくなる。
以前の私は、それがうまく消化できなくて、鮮明過ぎる『想い出』のなかの、
最期の言葉に、最期の笑顔に、心憂いて、涙する日もあったけれど、
いつしかきちんと受け止めて、前を向いて歩けるようになった。
それは時間が経ったからじゃなくて、『想い出』のなかから背中を押してくれる
力強いメッセージや、今この瞬間にそばにいてくれる大切な人たちのおかげ。
支えられて、守られて、『想い出』と優しく付き合っていけるようになった。
『今』という瞬間も、すぐに『想い出』に変わる。
私にできることは、毎日が愛しくて大切な『想い出』になるように、
ただまっすぐに生きるだけ。
日々、塗り替えられていく『想い出』と、今日一日を精一杯愛するだけ。
静寂に包まれるひとときは かけがえのない自分時間
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早寝早起きの習慣をつけなければと思いながら、はや数年。
以前よりは、幾分ましになったとは思うが、どうも私は、
誰にも邪魔されない真夜中の時間が必要なようだ(苦笑)
子供が成長して、昼間ひとりでいる時間が増えたものの、
それなりに用事があって出かけたり、家にいても、
チャイムが鳴ったり、電話があったりと、何かと落ち着かない。
真夜中は、何にも邪魔されることなく、好きなことができる
唯一の自分時間だというわけだ。
テレビを観たり、録画しておいた映画を観たり、
パソコンを開いて、HPやブログを更新したり、
ネットサーフィンしながら、好きな曲を聴いたり、
時には、時間が経つのも忘れて何かに没頭してしまうこともある。
以前は、よく真夜中に詩を書いていた。
昔の思い出に浸ってみたり、何かにインスパイアされて感情移入したり、
やたら人恋しくなったり、妄想が止まらなかったり(笑)
そういうテンションで書いた詩は、後になって読み返してみると、
あまりにも自分の素直な想いが出ているものと、見事に創られた世界のものと、
可笑しいくらい両極端だったりする。
それは、その日、その夜の気分の問題なのか、自分でも説明がつかない(笑)
さらに、真夜中過ぎて、意識が半分飛んでいる状態で書いた詩は、
翌日読んでも、誰が書いたの?というくらい記憶がない。
それでも、誤字脱字などはなくて、一応、詩として成立しているから
なんとも不思議でならない(苦笑)
自分の潜在意識で、指が勝手に動いているのかと思うと、ちょっと、
いやだいぶ怖い気がする。
とにもかくにも、真夜中は、私の心を映し出す鏡のような役割を
しているのかもしれない。
健康的な毎日を過ごすため、ある程度、規則正しい生活を送らねばと
わかってはいるのだけれど、あと少し、あと少しと、この自由な空間を
満喫しようとする私がいる。